集団的安全保障との決別

時事問題 2015年09月02日

安保法制の審議が佳境に入っていると思います。テレビを見なくなったので、国会の進行状況を正しく把握できてはいないと思います。そのような状況で今の国会に物申すのはとても憚られますが、国家にとって大事な場面を漫然と見過ごすことも良しとすることはできないと思います。そのようなわけで、私見を述べてみます。長文になるため、先に結論を列記します。

現行の安保法制案は廃案とする
安倍政権は安保法制の整備の前に憲法9条改正を目指すべきである
9条の戦力不保持は改正し、交戦権は個別的自衛権に限定する
安倍政権の外交姿勢は結果的にとても優れている
中国との偶発的な開戦を回避することに注力する
中国の軍備増強に対抗して防衛力を整備すべきである
非軍事的な信頼醸成努力の方がより求められる
国防に資するものは軍国主義ではなく、平和主義である。

シームレスな安全保障法制
日本が軽武装で経済発展できたのは日米安保条約のおかげであることは間違いないでしょう。片務協定のために「水と平和はタダ」で国土防衛を考える必要がなかったからです。安倍政権はシームレスな安保法制を構築し、どのような事態が起きても国家と国民の安全を守る体制を整えようとしています。
 
国家と国民の安全を守るというこの理念はとても尊いものです。為政者とすれば安全体制のほころびを見て見ぬふりはできないという誠実さの表れでしょう。しかし、集団的安全保障の問題が絡むだけにそう簡単に賛成するわけにはいきません。
 
欧米の為政者の多くは日本の安保法制案を評価する姿勢を示しているようです。集団的安全保障を是とする国々の立場では評価できるのでしょう。しかし、日本の立場ではそうは言えません。憲法9条があるからです。
海外での戦闘
憲法9条は戦争を放棄し、戦力の保持を認めず、交戦権も否認しています。自衛隊が存在している現実と齟齬はありますが、日本の国土に外国軍が攻め込んでこない限り、戦うことを認めていない点は今でも守られています。
 
集団的安全保障を認めるとなると自国が攻め込まれているわけでもないのに、他国のために海外で戦わなければいけなくなります。このような事態を憲法が認めている可能性は全くありません。現行の法案が憲法違反であることは疑いの余地がないともいえます。
 
集団的自衛権を憲法が認める余地がないわけではありません。国連軍が結成され、そこに自衛隊が加わる場合です。国連軍でなくても、国連軍に限りなく近い多国籍軍であっても認められるかもしれません。
アメリカを守る戦い
安倍政権が国連軍への参加をも意図しているわけではありません。変無協定である日米安保条約を改正し、米軍と運命共同体となって世界の警察の一部になろうとしているのです。そうなれば日本の立場を向上させ、国益を高めることになるのかもしれません。少なくともアメリカのご機嫌取りはできるでしょう。
 
しかし、世界の警察であろうとすると、確実に一定の人的被害を覚悟しなくてはならなくなります。イラクやアフガニスタンでのアメリカ軍の死者は多数に上ります。自衛隊もそのような紛争地に入り込み、武力で民間人を含む現地の人を殺し殺されることを日本国民は受け入れるのでしょうか。
 
さらに問題なのはアメリカが戦争を始めたときに日本も参戦するということです。アメリカの国益や国民のために自衛隊員が死ぬことを本当に受け入れるのでしょうか。自衛隊員のみならず、現地に滞在する邦人も殺されるでしょう。下手をすると日本国内でも事件が起こるかもしれません。最悪の場合は日本本土が攻撃にさらされます。
憲法9条改正
安保法制が整備されていないことは確かです。備えが不十分で、もしもの場合に国家や国民が危険にさらされる恐れもあります。しかし、憲法違反の原稿安保法制案を成立させるわけにはいきません。法案を取り下げて、憲法9条の改正を先に行い、その上で安保法制を完成させるべきです。
 
憲法9条の第1項は戦争放棄をうたっています。これは死守すべきです。第2項の戦力の不保持については自衛隊の存在を考えても現実に合わせるべきでしょう。交戦権については個別的自衛権のみ最低限の範囲で認め、集団的自衛権は否認すべきでしょう。
 
集団的自衛権に対する縛りをきつくするため、交戦権を否認した現行の憲法条文に留めておいてもよいでしょう。安倍政権としては憲法9条の改正に向かうべきだというのが私の意見ですが、私自身は9条を現在のままに「不磨の大典」としておいてもよいと思っています。現状との乖離はあっても、政府の暴走を防ぐ盾としては有用だからです。

中国の海洋権益
安保法制案について強く批判しているのは中国と韓国です。歴史的背景、経済大国化、死活的利益といった問題で中国の反発を捉える必要があります。中国は中東などでの日本の警察活動を問題視しているのではないと思います。自衛隊とアメリカ軍の結びつきが強くなり、日米の同盟関係が強化されることを警戒しているのだと思います。
 
中国は国際社会における自国の権益を拡大しようと画策しています。牛の舌と中国が主張する南シナ海の領土問題でも中国の最大の邪魔者はアメリカです。そのアメリカを助け、中国のすぐそばで監視しているのが日本です。アメリカと日本の関係が深まることは中国にとって脅威です。力づくで海洋権益を拡げようとすると、何かの拍子で中国本土が攻撃対象となる恐れもあります。

中国の偏った世論
日本の安全保障にとっての最大の脅威は中国です。中国が経済大国化し、日本ともアメリカとも経済的なつながりが強くなっています。そのような関係を断ち切って戦争が始まる理由はなさそうですが、そう楽観できるものでもありません。
共産党一党独裁の中国はマスコミが政府の統制下に置かれ、健全な世論が形成されていません。経済的、政治的に自信をつけた中国人民が何かの拍子に「日本許すまじ」といきり立った場合に成否が抑えられるとは限りません。いつ、偶発的に戦争が起こるか誰も予想できないのです。

専守防衛
中国との偶発的な戦争に備える必要は差し迫っています。こちらに何の意図もなくても、相手が一方的に仕掛けてくることはありうるのです。外交的な備えも必要でしょうが、自衛隊の軍備強化も必要でしょう。その際に強化すべきは個別的自衛権です。
集団的自衛権はどうでしょう。アメリカとの関係を強化するためには集団的自衛権を認め、アメリカと一体化することが望ましいでしょうか。そうは思いません。世界の警察となって自衛隊が世界各地に出向くことは国土防衛を疎かにします。世界の警察はいろいろな国と軋轢を生むでしょう。日本が敵を作れば作るほど中国が付け入る余地が増えます。日本は専守防衛に専念し、世界の国々と良好な関係を保つべきです。その方が自国を守ることになると思います。

軍国主義の被害者
中国政府は人民に対して日本との関係を手着のように説明しています。日本は中国を侵略したが、悪いのは日本の軍国主義者であって日本国民はその被害者である。私が学生の頃に中国を訪れたときにこの解釈を知りました。敵国の人間として敵視されるわけではなく、初めてみる外国人としてどこに行っても最大限にもてなしてもらいました。
日本人であれば中国政府の説明のおかしい点にすぐ気が付きます。日本は村落共同体の社会構造を今も維持していて、為政者の方針に逆らうことはありません。政治的な方向性も権力者ではなく、一般の構成員の合意で決定されます。従って、日本の軍国主義も大日本国帝国の臣民が主体的に作り上げたものであり、合意の上に戦争に突き進んでいったのです。そのため、一部の軍国主義者と大多数の一般国民に分けることなどできようもないのです。

一方、ほとんどの中国人民にとっては先の説明は容易に受け入れられるものでした。絶対的な権力を持つ皇帝が支配し、大衆はそれを受け入れるのみで意思を表す文化がないからです。このため、政府の説明は敵国である日本と和解するために都合よく利用されました。

安倍首相の歴史観
中国との緊張を避けるためには戦前の軍国主義をしっかりと封印する必要があります。これさえ心がけておけばうまくいくといってもよいでしょう。その邪魔をするのが安倍首相と政権中枢の歴史観です。「日本は中国を侵略していない」「南京大虐殺はなかった」「日本の朝鮮経営は善であった」といいたいのでしょう。日本側の視点に立てばそれも事実でしょう。

しかし、中国人や韓国人はそう感じていません。戦時下、占領下の中国人や朝鮮人がどの程度的確な事実認識があったかはわかりませんが、日本による被害を受けたという当事者の意識があることは間違いありません。この点は覆しようがなく、認めるしかないと思います。
「日本は中国を新緑した部分もあっただろうが、自営のためのやむを得ない戦いの要素もあった」「朝鮮人民を苦しめた部分もあったかもしれないが、朝鮮の発展に寄与した部分もあった」と控えめに主張すればよいのです。
 
バランス感覚
安倍総理が戦前の軍国主義にノスタルジーを感じていることはさすがにないだろうと思います。ABCD包囲網によって戦争に追い込まれた日本の立場を擁護したり、特攻攻撃で大海原に散った隊員の想いを尊重したいと考えているだけでしょう。
戦後の土下座外交を苦々しく思い、日本の立場を堂々と主張し、国のために亡くなった英霊に報いたいとひたむきに願っているのでしょう。しかし、自分の心情を行動として過度に表すことは巧妙に避けています。
終戦記念日に靖国神社に公式参拝することは自重しています。戦後70年談話についても中国や韓国にかなり配慮した内容となりました。優れて大人の外交態度だと評価できます。

面子の重み
中国や韓国は自国のことを棚に上げても、歴史的事実を捻じ曲げてでも、日本の安保政策に批判を加えます。日本政府が何度謝罪しようとも、いくら経済的利益を供与しようとも、そんなことはお構いなしです。日本人の心情としては誤っている者に対するまともな態度とはとても思えません。やはり中国や韓国の国民性は日本とは異質なのでしょう。日本人が重視する協調性よりも、面子の重要性が上回るのでしょう。例え関係性が損なわれようとも、面子を守ることが何よりも大事なのだと思います。

主張する外交
安倍首相は中国人や韓国人の心性をよく理解しているのだと思います。相手の心情を慮って譲歩することはなく、日本の立場を堂々と主張します。その分、外交関係は緊張しますが、表の顔とは裏腹に水面下で落としどころを探っています。中国や韓国にとって安倍政権のこのような態度は忌々しいものである一方で、尊敬するに値すると却って敬意を抱かせるものなのだと思います。ある程度の自制を伴いながらも主張する外交は称賛に値すると私は思います。

チベットで考えたこと
昨年9月に北京の学会に参加し、その後チベットを旅しました。中心都市のラサでは入植した漢民族の姿が目立ち、経済的にチベット族を支配していました。市内各所のお寺でも歴代ダライ・ラマの肖像画が掲げられる中で、インドに亡命中のダライ・ラマ14世のものだけは外されていました。言葉が通じないこともあってチベット人の本音を聞く機会に恵まれなかったのですが、植民者であり支配者である漢民族に対する反感が想像されました。共産党の支配に対する無言の抵抗として、熱心にチベット仏教に帰依しているように見えました。

人民解放軍
チベットは中国に支配されているという見方がある一方で、全く異なる捉え方もあります。1959年に人民解放軍が侵攻するまで、チベットは封建社会でした。大半のチベット人は滋陰の農奴として貧しい生活を強いられていたのでした。このようなチベット人民にとって、人民解放軍は文字通りの解放者でした。支配者のくびきから逃れ、以前よりは自由で豊かな生活を送ることができるようになったのです。

政治大国
中国のチベット支配をいくら欧米社会が非難しようとも、ダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を与えられようとも、中国政府は何ら同じません。「封建制からチベット人民を解放した」という大義名分があるからです。外交は力と力のせめぎ合いの世界です。軍事力や経済力に物を言わせねじ伏せたものの勝ちです。しかし、力だけで押し通すわけにはいかないのも事実です。外交の場で主張を通すためには力だけではなく、大義名分が必要なのです。この大義名分を仕立てあげることに長けた政治大国が中国なのです。

日本の国是
日本の安全保障上、最も優先されるべきは中国との偶発的な戦争を避けることです。そのための保険となるのが国際世論を味方に付けることであり、中国に政治的につけ入る隙を与えないことです。中国の視点に立つと日本の弱点は軍国主義の負の歴史です。日本の軍国主義者が中国賭事を構えようとすれば、助けてくれる国はありません。先に述べた通り、外交には大義名分が必要です。日本の軍国主義に立ち向かうという大義名分を中国に与えてはなりません。日本の国是は平和主義であり、これを保持し続けていれば中国は日本に手を出しようがないと私は考えます。平和ボケした能天気なものではありません。片手では防衛力の整備をしつつ、平和主義の体面はしっかりと維持するのです。

忍び寄る軍国主義
戦前の軍の指導部が軍の利益のみ考えた結果、国を破滅に導いたと単純に考えるのは正しくないでしょう。当時の軍上層部は頭脳明晰で海外駐在経験のある広い視野を持った人たちでした。そのようなthe Best and the Brightestであっても、覇権を競う時代の厳しい国際状況の中で日本を救う道を見誤ったのです。軍部のみが悪かったわけではありません。大陸在住の民間の邦人が繰り返し集団で殺害され、マスコミや国民は軍部や政治家の弱腰を批判しました。軍国主義は意図せぬ間に善意の人々の心の中に忍び寄ってくるということが歴史の教訓です。

法案の行方
現在の日本の政治状況は国是である平和主義が脅かされているように思えてなりません。日本の安全のために整備しようとされている法律が日本に災いを及ぼすことが心配でなりません。立案意図から離れて法律が独り歩きしたり、法律を都合よく利用したりしようとする政治家が現れる恐れがあります。特定秘密保護法の制定がその先例のようにも思えます。歴史の反省に立って、政治家は軍国主義の芽を摘まなければなりません。軍国主義の罠にかからないように自らの手で集団的自衛権を葬り去ることを望みます。自戒を込めて。