運命共同体のためには一身を捨てることも仕方がないこと

魔女のアドリア―ナがナッコスの何百年か前の村の様子を見通した挿話があります。年に一度の村祭りを世話する役目の男は1年前の集会で選ばれます。世話役は1年かけて準備し、祭りを仕切ります。祭りが無事に終了すると世話役は殺される決まりとなっています。
世話役は殺されることがわかっていても逃げ隠れしません。堂々と祭りを準備し、最期は刃物を持った女たちに狩り立てられて切り殺されます。
世話役の男はアンデスの守護精に対する捧げものなのです。生贄を捧げることにより大きな災厄から人々を守ってもらうことを祈るのです。
昔のインディオの社会には個人としての意識や人権感覚は存在しません。護るべきは個人ではなく共同体なのです。その意識があるため、殺す方も殺される方も祈りの中でことが進んでいくのです。そこには狂気や狂信はなく自然な社会の営みがあります。
ここで頭をよぎるのは神風特攻隊員のことです。制空権、制海権を失った日本軍に通常の戦法で連合国軍にダメージを与える力は残されていませんでした。ソロモン諸島を失い、フィリピンに主戦場が移った時期の情勢です。
その時期に、個人としては必ず死ぬが軍としては敵に効果的なダメージを与えられる特攻攻撃が開始されました。大局的には日本の敗戦をまぬがれることはできませんでしたが、局地的には連合軍に大損害を与えました。
特攻隊員には個人としての意識があったでしょう。しかし、軍や銃後を獲ることが大事だという意識も伝統的な日本社会の一員として持ち合わせていて、こちらを優先させることができたのでしょう。