大戦勃発を回避することが可能であったのか
『晩餐会へ向かう三人の農夫』の中で著者リチャード・パワーズは幾つかの伝記と評論を書いています。後で振り返ってみて、第一次世界大戦の勃発を回避できたのかどうかに関して評論を繰り広げている中の一部を引用します。
「立法者は法律を変えるために法律上の厳密な規則に従う。それと同じように、私の行為一つひとつが私という人間を変え、かつ私が自分を見る見方を変える。生きるという行為は、すなわち自分自身の伝記と連続性とを築き上げていく営みは、ひとつの時代がどうやって次の時代に移行していくかに関する歴史家の見解と、質的に変わらない。そう結論付けた私は、どこかにきっとあるはずの、おのれの正当を保証する条項を探し始めた。参加なしの解釈がありえないならば、伝記作者は、注釈者でも行為者でもない、観察されているシステムの外部にいる第三者に対して、おのれの正当性を弁明できねばならないはずだ。もしそのような、外部への弁明の道が存在しないのなら、判断というものはすべて、自己判断の無限退歩の中で停止してしまうほかないだろう。観察によって乱されない観察対象の姿を捉えるのは不可能だとしても、対象と観察者が最良の適合に達したか否かは、確認できてしかるべきだ。」
このような文章を読むとわくわくします。ビクトル・ユゴーが『レ・ミゼラブル』の中でワーテルローの戦いを評した部分を思い出します。ここにも「シュレジンガーの猫」が登場します。歴史家が運命論者にも修正論者にもならない立場を提示していると思います。