野中広務逝く

その他 2018年01月27日

私が幼稚園児だったか入る前だったか、父親に連れられて近くのライオンズクラブ(の会館)によく行きました。外に連れ出してもらえるのは楽しかったのですが、しばらく会館内で遊んでいるとすぐに飽きて帰りたくなります。おもちゃや絵本など一切なかったからです。
しかし、父親はおしゃべりばかりして、いつまでたっても帰ろうとしません。話し相手の中には野中さんがいたのですが、幼児の私にはそれが誰だか知る由もありません。日曜日の昼は父親と一緒に近くの喫茶店でカレーを食べました。この店にも同じ男の人がいて、父親はよく話しかけていました。
小学校に入ると入学式の檀上にこの人が上がり、祝辞を述べました。この時、この人が町長さんだと知りました。運動会や盆踊りなど行事の度に登場しました。
1995年に阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起こり、担当大臣として名を挙げた野中さんとその年の10月10日に久し振りに会いました。この日は私の結婚式で、主賓として披露宴でスピーチしてもらいました。
私の祖父は園部青年団の団長や園部商工会議所の会長をしていて、少し年下の野中町長を支えていました。1962年10月13日に町長室に飛び込んできた祖父は「孫が生まれた!男の子だ!」と叫んで町長と喜びを分かち合ったそうです。娘は4人いても男の跡継ぎがいなかったので、初孫の男児誕生は一汐だったのでしょう。
部落解放の闘志とし自治大臣は念願の働き所だったのだと思います。