『晩餐会へ向かう三人の農夫』
量子力学の有名な思考実験に「シュレジンガーの猫」があります。作家リチャード・パワーズの小説『晩餐会へ向かう三人の農夫』はこの猫のように過去の物語が現代の観察者によって別々の解釈となる複雑な小説です。
舞台は第一次大戦勃発時の独仏、ベネルクスと現代のボストン、シカゴ近郊、デトロイトです。主役級の登場人物は戦渦に巻き込まれたドイツ人の義理の3兄弟とボストンの業界紙編集者と著者らしき「私」です。自動車王ヘンリー・フォード、往年の名女優サラ・ベルナール、初期の写真家アウグスト・ザンダーの伝記ともなっています。
第一次大戦の3か月前にアウグスト・ザンダーが当時としては異例の野外で撮影した人物写真がこの作品のモチーフとなっています。現代の二人がこの写真を見ることで3人の農夫の運命が変わっていく小説でもあり、3人の農夫が現代の鑑賞者をみることで、現代の二人にも変化がもたらされるという不思議な世界です。
著者のリチャード・パワーズは発表されることはないと思いながら、20代半ばでこの小説を書き上げたそうです。生涯作品をほとんど発表しなかったフランツ・カフカとは異なり、この処女作品は出版されてベストセラーとなりました。物理学科に入って文学部を卒業したという経歴もあり、「知の巨人」と言える数多の知識がぶち込まれていて、とても読み応えがあります。寡作ですが、ノーベル文学賞の候補となっているそうです。ノーベル文学賞受賞作を多く読んできましたが、この作品がその列に加わるとすれば、十分に納得できます。